バックナンバー


齋藤 政勝氏写真
コピントハウス(有)フタバ社
(011)-862-4354
北海道札幌市白石区平和通3丁目北5-11

紹介文
企業ニーズに応える広告づくり。
コピントハウスの制作テーマです。率直にいうとあなたの店の売り上げをアップするため、広告を一緒に考える、DMやチラシ作りを考える、セールスポイントを考えるハウスです。例えば店のネーミングや創作文字(ロゴタイプ)作りから、こんなチラシを作りたいがどうしたらよいか・・・にもお応えします。あなたの店の「販売促進部」として"商売繁盛"のお役に立ちます。
また、コピントハウスではオリジナルレターセットを制作しております。自分で描いたイラストや住所・名前を便箋に入れて個性あるものを作る事ができます。
ご希望にあったデザインもいたします。
SP、デザイン、印刷のプロです。もちろん基本姿勢としての料金もお安く。



写真・画像の著作権はすべてコピントハウスにあります。 当サイトの画像について、HP・印刷・広告・商品等への無断使用や加工・転送を一切禁止します。

■白石百余年の人々

【バイオの先駆者、半澤洵は白石村出身の納豆博士】
 開拓間もない寒風吹きすさぶ白石の一隅で、父半澤時中と母加代の長男として明治12年(1879)1月9日(白石村三十一番地)で産声をあげたのが世界的学者となった半澤洵であった。
 父時中は、安政5年4月、藩主片倉小十郎の家臣、半澤時雍(ときやす)の子として生まれた。祖父時雍は、統一流の砲術を学び、近習鉄砲組々頭に任ぜられ、明治元年戊辰の役には、伊達の命に依り、錦旗を奉じて藩主従者として守備についた。その結果、戦いに破れて本道開拓を志し、明治4年、佐藤孝郷等約600人の人々と共に、小樽に上陸し、石狩を経て、18歳の時中を伴い、白石に移住した。その時、時雍はすでに63歳で、明治19年7月23日、78歳で死亡した。父の時中は29歳のとき開拓使工業局営繕課に務めた(明治15年7月12日南二条東四丁目の官舎に移転)、その後道庁属官を経て、明治44年58歳で小樽区役所収入役を最後に退職した。退職後も白石には深い関心を持ち、昭和15年、白石村開拓祖霊奉済会の顧問に推される。
 洵は明治17年3月に札幌県創成小学校に入学した。そこで白石村生まれの先輩である高橋進、手塚直巳らとの出会いもあった。明治25年(1892)8月26日、高等科四年を卒業。すぐに札幌農学校の予科を受験して合格した。農学校で予科五年、本科四年の課程を終えて、明治34年7月に卒業したが、学校では農業生物学科植物病理学を専攻していた。農学校の恩師、宮部金吾の計らいで北海道農事試験場の農芸科主任になり、応用菌の研究を始めた。幸運にも東京で北里柴三郎のもとで勉強する機会も与えられた。

【北大で応用菌学の研究を深める】
明治40年(1907)9月、札幌農学校が東北帝国大学農科大学(北大の前身)になったとき助教授に任官した。明治44年9月には、応用菌研究のためドイツをはじめ欧米13カ国に留学して、農業経営と病原菌の結びつきを学び深めてきた。大正5年(1916)6月に教授となり、「土壌と肥料の微生物に関する研究」「農業経営と土壌の肥沃度」「札幌村に発生した玉ねぎの腐敗」「牛乳の殺菌」などの研究論文を次々と発表した。なかでも半澤洵を有名にしたのは、近代的納豆製造法の確立だった。

【ナットウ菌の純粋培養に成功】
 仙台藩白石出身を親にもつ洵には、自らの食生活と関連した課程を大切にした。納豆は東北の代表的な食べ物だが、ワラに含まれるナットウ菌を使い、勘と経験で作られてきた納豆製造法は不安定で衛生面でも問題があるものだった。この問題に着目した洵は、ナットウ菌の抽出培養に成功し、温度と湿度のバランスによる安定したナットウ菌の純粋培養法を考案したのである。この科学的で衛生的な半澤式改良納豆製造法を広めるため、業者一人ひとりに丁寧に指導し、北大を定年退職するまで二十六年間にわたって指導を続けた。わが国の納豆製造法は現在この方法で行われているという。以来納豆博士と呼ばれ、納豆研究だけが注目されたが、洵の工業微生物の研究は外国では著名であった。バイオテクノロジーは現代の寵児となっているが、その根幹は発酵技術であり日本がその最先端をいっているのも洵の功績から出発していると言っても過言ではない。大学教授時代の洵は、農地に作物病が発生したと聞くと、ただちに現地へ行って解決に努めた。研究室よりも現場を大切にした研究者だった。
【有島武郎とともに遠友夜学校教授に】
 明治27年に新渡戸稲造博士が私財で創設した札幌遠友夜学校では、宮部金吾、有島武郎、野中時雄らとともに無償の教授となって学生を指導した。大正10年には第三代校長に就任した。遠友夜学校は、戦時中の昭和19年4月道庁の命令で軍の施設に転用されたために閉校し、洵は最後の校長となってしまった。社会事業に力を注ぐようになったのは新渡戸稲造の感化といわれる。新渡戸、有島らはキリスト教の信者として奉仕活動を実践したが、洵は入信せず、自分の考えで奉仕活動を続けた。大正13年から北大に学ぶ学生のなかに宮城県出身者が多くいた。後輩のために老朽化した仙台寮を改築すべきと、幾度も仙台市に足を運んで資金調達に心をくだき、昭和40年にやっと近代的耐火建築の寮を建てた。洵の誠実で意志の強い姿は宮城県出身者に感謝されているという。

【退職後は福祉事業に貢献】

明治45年5月 ドイツにて

 昭和16年、北海道大学を定年退職後、各種の社会事業、福祉団体で奉仕活動をしていた。その役職は、北海道社会事業連盟理事長、北海道総合開発調査委員会文化厚生専門委員会委員、各種大学の教授、校長など二十を超えるが、役職を形式的に勤める人ではなかった。共同募金運動では使用済みの収入印紙は額面の二〜五%を戻してくれると言うので、東奔西走して膨大な量の書類を借りて歩き、自らていねいにはがして十万円あまりを得たという話もある。趣味に宝生流謡曲、能書家などがあり、白石の藩士出身を自認していたとも伝えられている。昭和47年に没した。
 
次回へ



| 全道マップ | 会員規約 | 免責と注意事項 | 著作権とリンク | 広告募集 | お問合せフォーム | ホームページ製作|
Copyright(C) 2002 Hokkaido-club.com All rights reserved.