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明治元年、政府が北海道の開拓を諸藩に投げかけたところ、鹿児島は拒否をしたそうで、明治2年には強制分領という形で十勝と日高5郡の開拓を強制され、7,300戸余り、4万人近い人たちが北海道に移住し、7万5千ヘクタールの原野を開拓したという記録にあるが、しかし同年に交通の不便、漁業利益の薄益から分領地を返上したらしいのだ。なんとも情けないことである。この屯田兵開拓の基礎はなんと西郷隆盛が構想し、開拓使長官だった薩摩藩士、黒田清隆が実行したのにもかかわらずである。でもこの負い目があったのがどうかわからないが、実に多くの鹿児島人が北海道の開拓に寄与しているのを知ってとても嬉しくなった。 政府関係者では「屯田兵の父」と仰がれるほど北海道の守りと開拓に一生をささげた永山武四郎、黒田清隆の樺太放棄構想に反対した永山弥一郎、国後、択捉島をふくむ北海道東部の道路建設に尽力した永山在兼、札幌農学校の開設に尽力し初代校長になった調所広丈、初代根室県令の湯地定基、初代函館県令の時任為基、農商務省北海道事業管理局長の安田貞則等数多くいる。民間人では、幌加内村(現在の幌加内町)で鉄道敷設に活躍した吉利智弘、薩摩藩英国留学生の一人で北海道でのビール製造の礎を築いた村橋広成、北海道の炭鉱産業の発展に寄与した堀基や園田実徳等がいた。
このように薩摩人は関ヶ原の戦で負けながらも領地を搾取されることなく400年の長きに渡り島津家が繁栄してきたのは、時代にあわせ自分たちの考えや行動を変えていったからだろう。だから明治維新もしかり、北海道開拓への尽力もしかりだと思う。そしてそれが今の北海道を支える礎になっている事を知って、子孫として誇らしい気持ちでもある。
(続) |
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